- 毛沢東
- 中華人民共和国建国
- 日本の降伏後、国民党軍を駆逐
- 1949年1月北京に入城し、10月1日天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言
- ソビエト連邦を訪れてスターリンと会見
- 建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義中国の建設に力を注ぐ。
- 1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で知識人から硬直した政策に批判
- これを弾圧するために
- 1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。
- 1958年から1959年まで実施された大躍進政策に大失敗し2000万人から2500万人以上の餓死者を出す。
- 毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない傾向
- 対米政策をめぐって対立したフルシチョフとも不仲
- 1960年にはソ連の技術者全員が引き上げ
- 孫文
- 広東省香山県(現中山市)の農家に生まれる
ーーハワイにいた兄の孫眉を頼り、ハワイのキリスト教系学校に学び西洋思想に目覚める
- 兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された
- 帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱く
- マカオで医師として開業した
- 清仏戦争の頃から政治問題に関心
- 1894年、ハワイで興中会を組織
- 翌年、広州蜂起に失敗して日本・米国を経て英国に渡り、一時清国公使館に拘留
- その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる
- 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った
- 1905年に興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成
- 1911年10月10日、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴えた時、孫文はアメリカにいた。 独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、
- 1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立
- 宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る
- 袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、日本へ亡命
- 袁の死後は広州で政権を樹立して軍閥割拠する中国の統一を図り、ソ連の支援を仰いだ
- 中国共産党とも協力関係を結ぶ(第一次国共合作)
- 蒋介石ら反共意識が強く、財閥の結びつきの強い人物の反発
- 1925年、「革命未だならず」と言い残して北京に客死し南京に葬られた
- 死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた
- 1931年10月8日、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた錦州を関東軍の爆撃機12機が空襲した。南次郎陸軍大臣は若槻礼次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。これによって幣原の国際協調主義外交は決定的ダメージを受けることになる。
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